2021.07.21-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20210721-I75ZLYN32ZJCVLGNA7MOINESQI/
中南米で左派が伸長 中露はワクチン攻勢
【ニューヨーク=平田雄介】
南米ペルーの大統領選で急進左派のペドロ・カスティジョ氏が勝利
し、
新型コロナウイルス禍による経済苦や格差拡大が、中南米地域で左派勢力の伸長を後押しする
構図が強まった。
この地域には中国とロシアのコロナワクチンが急速に浸透しており、中露が影響力を強めることへの懸念
も出ている。
ペルーでコロナの感染拡大が顕著となった昨年4~6月、人工呼吸器の寄付や感染症専門医の派遣といった支援を大規模に展開したのは中国
だった。
習近平国家主席
は
ペルーのビスカラ大統領(当時)
との電話会談で「
継続的な支援
」を約束した。
今月15日には大統領選決選投票の公式結果が発表される前だったにもかかわらず、カスティジョ氏が在リマ中国大使館を訪ね、迅速なワクチン供給を求めた。
ペルーは2019年に中国の巨大経済圏構想
「
一帯一路
」に関する覚書を交わしている。コロナ禍の収束と経済再生を中国に頼る姿勢は、28日に発足するカスティジョ新政権にも引き継がれそうだ。
その中国を、ペルーへの契約済みワクチン供給量で上回るのがロシアだ
。
露サンクトペテルブルク大のヘイフェツ教授はワクチン
を「
ソフトパワー
」と称し、
中南米でロシアが影響力を拡大する道具になっていると指摘
。「
同じことは中国にも当てはまる
」と米メディアに語った。
中南米諸国に対する中露のワクチン供給量は5月初旬に8千万回分
を超えた。これに対し、
中南米を伝統的に「裏庭」として重視してきた米国の供給量は約2400万回分
にとどまっている。自由と民主主義を重視する米欧メディアでは、中南米諸国が権威主義の中露への依存を深めることに懸念が広がっている。
昨年来の中南米の選挙で、左派が勢いを増していることも不安を呼ぶ要因となっている。
ペルーの隣国ボリビアでは昨年10月の大統領選で社会主義運動(MAS)のアルセ元経済・財務相が勝利し、左派政権が復活した。これを受け、反米左派政権を14年間率い、軍部などの辞任要求で亡命していたモラレス元大統領がアルゼンチンから帰国した。
エクアドルでは今年4月、大統領選の決選投票で親米右派のラソ氏が逆転勝利を収めた。だが、2月の第1回投票では総額10億円の現金給付を公約に掲げたアラウス候補が首位に立ち、中南米で「反米左派ドミノ」が起きるとの見方が強まった。
5月、チリでは新憲法草案を起草する議員を選ぶ制憲議会選があり、格差解消を掲げる左派系候補が多数派となった。11月21日実施の総選挙にも影響するとみられている。
自由主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
自由主義
(
英
:
liberalism
、
リベラリズム
)とは、自由と平等な権利に基づく政治的および道徳的哲学である。自由主義者はこれらの原則の理解次第で幅広い見解を支持するが、一般的には
個人主義
、
立憲政治
、個人の権利(
公民権
および
人権
を含む)、
資本主義
(
自由市場
)、
民主主義
、
世俗主義
、
男女平等
、人種の
平等
、
国際主義
、
言論の自由
、
表現の自由
、そして
信教の自由
を支持する。
自由主義は、西洋の哲学者や経済学者の間で人気が高まった啓蒙時代に明確な運動となった。自由主義は、遺伝的特権、
国教
、
絶対君主制
、
王権神授説
、そして伝統的な
保守主義
の規範を
議会制民主主義
と
法の支配
に置き換えることを目指していた。自由主義者はまた、
重商主義
的政策、王室独占およびその他の
貿易障壁
を撤廃し、自由市場を促進させた。哲学者
ジョン・ロック
はしばしば自由主義を確かな流派として創設したと信じられており、各人は生命、自由および財産に対する自然の権利を有し、政府は
社会契約
に基づいてこれらの権利を侵害してはならないと付け加えた。イギリスの自由主義の伝統は民主主義の拡大を強調してきたが、フランスの自由主義は
権威主義
の拒否を強調しており、建国と結びついている。
1688年の
名誉革命
、1776年の
アメリカ独立
、1789年の
フランス革命
の指導者たちは、王位の専制政治の武力による打倒を正当化するために自由主義哲学を用いた。特にフランス革命後、自由主義は急速に広がり始めた。 19世紀はヨーロッパと南アメリカの国々で自由主義政府が設立されたが、アメリカでは共和主義と並んで確立された。
ビクトリア朝
のイギリスでは、自由主義は人々を代表して科学と理性に訴えて、政治的
エスタブリッシュメント
を批判するために使われた。19世紀から20世紀初頭にかけて、
オスマン帝国
と中東の自由主義は、
タンジマート
や
アルナダ
などの改革時代、ならびに世俗主義、立憲主義、
ナショナリズム
の台頭に影響を与えた。これらの変化は、他の要因と共に、
イスラム教
内に危機感を生み出すことに繋がり、それは今日に至るまで続き、イスラム復興につながった。 1920年以前、古典的自由主義の主なイデオロギー的反対派は保守主義であったが、自由主義は新しい反対派からの大きなイデオロギー的挑戦、すなわち
ファシズム
と
共産主義
に直面した。しかし、20世紀の間、自由主義的な民主主義が二度の世界大戦で勝利を収めるなど、自由主義的思想も特に西ヨーロッパでさらにいっそう広がった。
ヨーロッパと北アメリカでは、
社会自由主義
(米国では単に「自由主義」と呼ばれることが多い)の確立が、
福祉国家
の拡大における重要な要素となった。今日、自由主義政党は世界中で権力と影響力を行使し続けている。しかし、自由主義には、アフリカとアジアで克服すべき課題がまだある。現代社会の基本的な要素は自由主義のルーツを持っている。自由主義の初期の波は憲法上の政府と議会の権限を拡大しながら経済的個人主義を広めた。自由主義者は、言論の自由や結社の自由、
陪審員
による独立した司法裁判および公判、貴族の特権の廃止など、重要な個人の自由を尊重する憲法上の秩序を求め、確立した。最近の自由主義思想と闘争の後の波は、
市民権
を拡大する必要性によって強く影響された。自由主義者たちは、
公民権
を推進するために
ジェンダー
と
人種的平等
を提唱し、20世紀の世界的な公民権運動は両方の目的に向けていくつかの目的を達成した。ヨーロッパ大陸の自由主義は、穏健派と進歩派に分けられ、穏健派はエリート主義になる傾向がある一方、進歩派は普遍的な参政権、普遍的な教育、財産権の拡大などの基本的制度の普遍化を支持している。時を経て、穏健派はヨーロッパ大陸の自由主義の主要な後見人として進歩派と取って代わった
語源と定義
リベラル、リバティ、
リバタリアン
、
リバティーン
などの言葉は、すべて「自由」を意味するラテン語のliberにその歴史を辿ることができる。リベラルという言葉が最初に記録されたのは1375年のことで、自由に生まれた人間にとって望ましい教育という文脈で
リベラルアーツ
を説明するために使われていた。この言葉が中世の大学の古典的な教育と結びついた初期の段階では、すぐに様々な意味合いが生まれた。リベラルは早くも1387年には「自由に与えられる」という意味になり、1433年には「気力のない」、1530年には「自由に許される」、16世紀と17世紀には「拘束から解放される」という意味になり、しばしば蔑称として使われるようになった。16世紀の
イングランド
では、リベラルは、誰かの寛大さや軽率さを指すときに、肯定的な属性と否定的な属性を持つことができた。
ウィリアム・シェイクスピア
は、『
空騒ぎ
』の中で、「下品な出会いを告白する」リベラルな悪女のことを書いている。
啓蒙主義
の台頭とともに、1781年には「狭い偏見から解放された」、1823年には「偏見から解放された」と定義されるようになり、この言葉はより肯定的な意味合いを持つようになった
。1815年には、英語で「自由主義」という言葉が初めて使われるようになった。スペインでは、政治的な文脈でリベラルという言葉を使った最初のグループであるリベラレスは、
1812年憲法
施行のために何十年にもわたって戦った。1820年から1823年にかけての「
トリエニオリベラル
」では、
フェルナンド7世
はリベラル派から憲法を守ることを誓うよう強制された。19世紀半ばまでには、リベラルは世界中の政党や運動の政治用語として使われるようになった。
時が経つにつれ、リベラリズムという言葉の意味は、世界の様々な地域で多様化し始めた。
ブリタニカ百科事典
によると、「米国では、自由主義は、
フランクリン・D・ルーズベルト
大統領の民主党政権の
ニューディール
計画の
福祉国家
政策に関連しているが、ヨーロッパでは、制限された政府と
自由放任主義
の経済政策へのコミットメントに関連しているのが一般的である」という。その結果、アメリカでは、以前は
古典的自由主義
と結びついていた個人主義と放任主義経済学の考え方が、リバタリアン思想の新興派の基礎となり、
アメリカの保守主義
の重要な構成要素となっている。
ヨーロッパやラテンアメリカとは異なり、北米のリベラリズムという言葉は、ほとんどが
社会自由主義
を指している。カナダの支配的な政党は
自由党
であり、米国では
民主党
が通常リベラルと考えられている。
種類
古典的自由主義
古典的自由主義
(
Classical liberalism
)とは、
ジョン・ロック
や
ジョン・スチュアート・ミル
などの
イギリス
の
啓蒙主義
時代の政治哲学を源泉とする思想である。彼らは
ホッブス
の
社会契約論
をもとに個人の生命(
Life
)、自由(
Liberty
)、財産(
Property
)の3権利を
自然権
として主張し、以前の神学から決別した形で社会のあり方を説いた。初期の自由主義は王政のイギリスで主張されたもので、必ずしも民主主義を主張するものではない。この場合の自然権とは政治的権利はともかく個人の権利として、国王であろうとも犯すことのできない最低限の権利を論じるものであった。その後の
フランス
などの革命思想において
民主主義
、
平等主義
、
共和主義
、
世俗主義
などの要素が先に述べられた3権利の維持には不可欠であるとの主張が加わる。個人の自由の尊重、平等な
個人
の観念、
寛容
、
法
の尊重、
権力の分立
と
議会
制度、
市場経済
の承認といった価値観を主張する思想ともいえる。
特に、前者の最初期の自由主義をもって古典的自由主義という場合は
レッセ・フェール
(放任される自由)を強調する思想となり、個人主義の哲学・世界観に基づく市場経済社会と、政治体制として最小限の政府(
小さな政府
)を理想とする「
夜警国家
」を主張する。
古典派自由主義経済学
は、利己的に行動する各人が市場において自由競争を行えば、その意図しない結果として(「
見えざる手
」)、公正で安定した社会が成立すると考える思想(→
アダム・スミス
)である。経済的自由を重視する立場から、英語圏では
Economic liberalism
(
経済自由主義
)や
Market liberalism
(
市場自由主義
)とも呼ばれる。一方で後者の後期の自由主義の場合は、放任される自由という観点とは逆に政府によって保護される権利という観点に立ち、国民の生活水準を守る目的での累進課税や保護主義、さらには公共機関においての宗教的服装を禁止など、自由との表現と矛盾するように見えるものである。これは日本語に明確に翻訳されていない
Liberty
がどのように解釈されるかでその政策的意味が変化することもあげられる。
近代自由主義
近代自由主義(モダン・リベラリズム、
英
:
Modern liberalism
,
Reform liberalism
)は、自己と他者の自由
を尊重する
社会的公正
を指向する思想体系のことをいう。
レッセフェール
(自由放任)を基本原理とする古典的自由主義や
自由至上主義
とは異なり、それが人々の自由をかえって阻害するという考え方が根底にある。現代において個人の自由で独立した選択を実質的に保障し、極度の貧富差における経済的隷属や個人の社会的自由を侵害する
偏見
や
差別
などを防ぐためには、政府による制限や介入をなくしたりする(
無政府資本主義
、
リバタリアニズム
、
新自由主義
)のではなく、政府や地域社会による積極的な介入も必要であるという考えに基づく。
「
公正
」とは、
ジョン・ロールズ
によれば「立場入れ替え可能性の確保」を意味する。これは人々に「社会のどこに生まれても自分は耐えられるか」という反実仮想を迫るものであり、機会平等と最小不幸を主張する。ロールズの格差原理では、格差ないし不平等の存在は、それをもたらす職務につく機会が平等に開かれており、かつ、それによって社会で最も不遇な人々の厚生が図られない限り、その存在は公正ではないものとされている。
よって、近代自由主義は
積極的自由
に基づく自己決定を推奨し、国家による富の再配分または地域社会による相互扶助を肯定する。すなわち、
市場原理主義
では大企業が利益を最大化する一連の行為のために、失業問題や構造的貧困や環境問題などさまざまな弊害・社会問題が生じ、それは古典的自由主義の「意図に反して」人々の社会的自由をかえって阻害しているとし、古典的自由主義を修正する思想である。
日本語では
消極的自由
を重視する古典的自由主義とのニュアンスの違いを表すため、また、混同を避けるためにあえて自由主義ではなく
リベラリズム
と呼ばれることが多い。英語圏では
Social liberalism
(
社会自由主義
)と表現される。社会的自由を重視することから、
社会民主主義
との親和性がイメージされることも多い。ただし、事後的な
社会保障
としての
福祉国家論
を主張した社会民主主義とは異なり、
個人主義
に信頼するロールズのリベラリズムでは、人的資本を含む生産手段の広範な分散的保有の事前的な制度的保障が主張されている。
歴史的起源とその展開
「
政府は、共同体一人ひとりのメンバーを強力な権力でつぎつぎと押さえ込み、都合よく人々の人格を変質させたあと、その超越的な権力を社会全体に伸ばしてくる。この国家権力は細かく複雑な規制のネットワークと、些細な事柄や征服などによって社会の表層を覆った。そのために、最も個性的な考え方や最もエネルギッシュな人格を持った者たちが、人々を感銘させ群集の中から立ち上がり、社会に強い影響を与えることができなくなった。
人間の意志そのものを破壊してしまうことはできないが、それを弱めて、捻じ曲げて、誘導することはできるのだ。国家権力によって人々は直接その行動を強制されることはないが、たえず行動を制限されている。こうした政府の権力が、人間そのものを破壊してしまうことはないが、その存在を妨げるのだ。専制政治にまではならないが、人々を締め付け、その気力を弱らせ、希望を打ち砕き、消沈させ、麻痺させる。そして最後には、国民の一人ひとりは、臆病でただ勤勉なだけの動物たちの集まりにすぎなくなり、政府がそれを羊飼いとして管理するようになる
」
—
アレクシス・ド・トクビル
『
アメリカの民主政治
』
「
われわれの選良を信頼して、われわれの権利の安全に対する懸念を忘れるようなことがあれば、それは危険な考え違いである。信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。われわれが権力を信託するを要する人々を、制限政体によって拘束するのは、信頼ではなく猜疑に由来するのである。われわれ連邦憲法は、したがって、われわれの信頼の限界を確定したものにすぎない。権力に関する場合は、それゆえ、人に対する信頼に耳をかさず、憲法の鎖によって、非行を行わぬように拘束する必要がある。」「われわれの選良を信頼して、われわれの権利の安全に対する懸念を忘れるようなことがあれば、それは危険な考え違いである。信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。われわれが権力を信託するを要する人々を、制限政体によって拘束するのは、信頼ではなく猜疑に由来するのである。われわれ連邦憲法は、したがって、われわれの信頼の限界を確定したものにすぎない。権力に関する場合は、それゆえ、人に対する信頼に耳をかさず、憲法の鎖によって、非行を行わぬように拘束する必要がある。
」
—
トーマス・ジェファーソン
、1776年(
法律学全集
3『憲法』pp.90)—
トーマス・ジェファーソン
、1776年(
法律学全集
3『憲法』pp.90)
自由主義の哲学的、思想的源流をさかのぼると、17世紀イギリスの
ジョン・ロック
(
1632年
-
1704年
)の思想に行き着く。ロックは、人間は生来自由で可能性に充ちた生き物であり、いかなる人間にも自らの自由な意思と選択で生きることが認められていると主張した。この権利は「
自然権
(
Natural Rights
)」として個々の人間に生まれた時から備わっているものであり、誰からも妨害されることはない。人間は誰もが、個人の自由な意思に基づいて自らの判断で思想も宗教も生き方や生活のスタイルも自由に選ぶことができると主張した。当時、市民の生活に強力な
王権
で干渉し、人々の財産までその一存で奪うことができた
絶対主義
政府の国家権力に対抗する思想としてロックが生み出した主張が、リベラリズムの始まりであると言われる。
ロックはさらに、この個人の自由に生きる権利を実際に行使するためには、専制的権力者や独断的な政府政策、政治制度や社会制度の一方的な主義や主張、
イデオロギー
などによって勝手に奪われてしまうことのない自分の「財産」を所有する必要があると主張した。ロックによれば、当人の所有物となるのは身体を用いて自然界の共有物から切り離されたものであるとされた。また、この自己所有は自己の身体に対する所有権にその原型を有するものとされた。この立場からは、当人の所有物をその同意を得ないで使用することはいわば奴隷化と同等であって正義に反するとされた。
そして、自由な政治と経済体制のもと、自由な市民による自主的な合意によって制定される「法律」と、自由な意思を持つ個人どうしの自発的で主体的な裁量によって結ばれる「契約」によって初めて、各人がこの「所有権」を保障され、自分自身や自分が自由に生きるために必要な自分が占有できる財産を得るのだと主張した。「政府」の真の役割とは、こうした個人の権利を「守る」ことに限定される。これを破ってその国家権力を乱用し人々の自由を奪った時には、市民が
抵抗権
・
革命権
を行使しその政府を交代させる権利を持つのだと主張した(
社会契約説
)。
スコットランド
の
古典派経済学
(
classical economics
)の学者である
アダム・スミス
はロックに続いて、個人の利己心がその意図しない結果として社会全体の利益をもたらすという「見えざる手」の議論を展開した上、そのために、政府の干渉や介入政策を受けない、自由な経済環境(
自由市場
)における自由な経済活動が必要だと説いた。(「
重商主義
」および「
国富論
」も参照)
このイギリスの自由主義(リベラリズム)の思想が18世紀にアメリカに渡り、米3代大統領
トーマス・ジェファーソン
らアメリカ建国の中心人物たちである
ファウンディング・ファーザーズ(建国の父達)
によってアメリカ建国の国家思想として引き継がれた。彼らは、巨大な国家権力で人民を縛り付けたイギリスの政府支配体制に対抗してイギリスを離れ、新天地アメリカに王権にも専制政府権力にも統制を受けない、独立した
市民
による自発的な人々の自由な
市民社会
の設立を目指した。建国後に建国の父達は人民の基本権を守るために
権利章典
を制定した。だが、この
権利章典
は
憲法
の制定当初にはなく、後に、「
修正条項
」として
アメリカ合衆国憲法
に追加された。
その後
ジョン・スチュアート・ミル
のように
自由民主主義
の方向で対応していく流れ(
レオナルド・トレローニー・ホブハウス
、アレクサンダー・ダンロップ・リンゼイ、
アーネスト・バーカー
、
ジョン・デューイ
)に対して、とりわけ20世紀の前半になると、
新自由主義
論(グレイのような論者は「古典的自由主義の
復興
」として取り扱う)が台頭してくる。代表は
フリードリヒ・ハイエク
である。
近代自由主義の成立とその後
19世紀
後半から
20世紀
前半にかけて、ホブハウス、デューイ、
ルヨ・ブレンターノ
、
トーマス・ヒル・グリーン
、
ジョン・メイナード・ケインズ
、
ベルティル・オリーン
といった人たちによって哲学的・経済学的な視点から、自由放任主義を放棄し、時には国家による介入も容認するべきであるとする根拠と方法が次第に理論化され、こうした思想家の影響を受けた自由主義者たちは
ニューリベラル
(
new liberals
)と呼ばれ影響力を増していく。
かれらは階級間の融和不可能な対立や
中央集権
的な統制を是認しない一方で、古典的自由主義者のように自由競争が市場における「神の見えざる手」のように最大多数の最大幸福を自動的に実現するとは信じず、政府によって、各人の社会的自己実現をさまたげ、市場や社会における相互の欲求の最適化や調整のメカニズムを阻害する過度の集中や不公正などの要因を除去することが、まさしく「自由」の観点から言っても必要だと考えた。
なかでもケインズは「自由放任の論拠とされてきた形而上学は、これを一掃しようではないか。持てる者に永久の権利を授ける契約など一つもない。利己心がつねに社会全体の利益になるように働くというのは本当ではない。各自別々に自分の目的を促進するために行動している個々人は、たいてい自分自身の目的すら達成しえない状態にある」と述べ、
アダム・スミス
に由来する「見えざる手」に信頼する自由放任論からの脱却を求めるとともに、具体的には不完全雇用均衡からの脱却のための経済政策が、
政府
によって実現されることを求めた。
こうして、大恐慌を代表とする「市場の失敗」や
ニューディール政策
などを経たアメリカでは、民主党などに代表されるように、自由を実質的に実現するためには、その現実的制約となっている社会的不公正を政府によって是正しなければならない、という
アイザイア・バーリン
によって分類された「積極的自由」を重んじる(他からの不干渉というのにとどまらず実質的な自己決定、自己支配が達成されなければ、形式的自由には意味がないという)思想がリベラルの中で優勢となった。
しかし、20世紀後半、石油危機後の低成長時代を迎え、
スタグフレーション
や財政赤字といった問題が深刻化する中、従来のリベラリズムに対する批判が経済学の
シカゴ学派
から始まり、
福祉国家
の見直しや国営企業の民営化、規制緩和を志向する
新自由主義
が優勢となった。その後、
1980年代
の
新自由主義
への対抗から、
小さな政府
と
大きな政府
との中道を模索し、市場を重視しつつも国家による公正の確保を志向する
第三の道
が
1990年代
に台頭した。
2000年代
の今日では、
グローバル化
の進行に伴い、市場を自由化しようとする
リバタリアニズム
や
新保守主義
とどのように対応していくかがリベラリズムの課題となっている。
議論
現代の自由主義としてのリベラリズムに関する議論としては、
・「自由」に対して普遍的な価値を認めるリベラリズムの普遍主義が、リベラリズムを否定する価値をも包摂しうる
アイザイア・バーリン
などの価値多元論との整合性をもたないという批判
・
積極的自由
に基づく自己決定の推奨が、
消極的自由
を重視する古典的な自由主義の立場から見て、一種の
パターナリズム
にあたり、ことに所得再配分のための私的所有権に対する規制を、かえって自己決定の余地を狭めるもので、政府の恣意的な干渉と捉える
ノージック
らの
リバタリアニズム
からの批判
・人格の有する諸属性は本質的なものであって、ロールズの想定する偶有性は、無意味な仮想であり、リベラリズム的な個人主義が、家族や地域などとの紐帯を欠いた負担なき自我にすぎないというサンデルらの
共同体主義
からの批判
がなされており、リベラリズムの側からのロールズによる反論もなされている。なお、リベラルという語が、本来的な中道左派思想としての社会自由主義(
Social liberalism
)を超えた広がりを現在では有していることから、広く左翼的と観念された思想として批判を受けることもある。
社会主義国
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社会主義国
とは、
社会主義
を標榜する
国家
のこと。通常は
憲法
などで社会主義を国家理念・国家政策として掲げる
共和国
であり、単に
共産党
が
政権
を担っているだけでは社会主義国とは呼ばれない(
キプロス
、
サンマリノ
、
ネパール
など)。狭義には
マルクス・レーニン主義
を掲げる国家、広義には社会主義的諸政策を推進している国家である。
最初の社会主義国家は
ソビエト社会主義共和国連邦
(ソ連)で、
ソビエト連邦の崩壊
後の現在では
中華人民共和国
、
朝鮮民主主義人民共和国
(北朝鮮)、
ベトナム
、
ラオス
、
キューバ
である。
歴史
誕生
19世紀
の
資本主義
社会は過酷な労働環境をもたらすなど多くの矛盾・問題点を孕んでいた。その問題点は多くの
社会主義
学者によって分析され理想の社会が論じられてきたが、特に
カール・マルクス
、
フリードリヒ・エンゲルス
らは、資本主義が成熟した後に社会主義(
共産主義
)が実現しうるとした。
世界初の労働者による革命政権は
1871年
の
パリ・コミューン
であり、世界で最初の社会主義国家は、
ロシア革命
と
十月革命
を経て
ボリシェヴィキ
が主導権を握ったことで
1917年
に成立した
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
である。ボリシェヴィキの
政権
は
ロシア内戦
を経て
1922年
に成立した
ソビエト連邦(ソ連)
の前身となった。この他にもロシア内戦の時期には旧
ロシア帝国
領内に複数の社会主義政権が生まれている。
1919年
には
ハンガリー評議会共和国
が成立したが、まもなく消滅した。
1924年
には
中華民国
から独立する形で、
アジア
最初の社会主義国として
モンゴル人民共和国
が誕生した。
拡大と冷戦
(「
東側諸国
」も参照)
第二次世界大戦
後、多くの社会主義国が誕生した。
東欧
では、多くの国々がソ連により「解放」された結果として社会主義国(
衛星国
)となり、ソ連を盟主とする軍事同盟の
ワルシャワ条約機構
に加盟した(
東ドイツ
、
ポーランド
、
チェコスロバキア
、
ブルガリア
、
ルーマニア
、
ハンガリー
、
アルバニア
)。ただしアルバニアは
中ソ対立
の際に親中路線をとり脱退した。
ユーゴスラビア
は当初の親ソ路線から独自の社会主義路線に転じ、
非同盟
中立
政策や、一定の
自由市場
経済を認める
市場社会主義
を採用した。
東アジア
では、
大日本帝国
の敗戦により、
1948年
に
大韓民国
樹立に対抗する形で
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)
が成立した。中国では
汪兆銘政権
が崩壊した後に
国共内戦
が再開され、
蔣介石
率いる
中国国民党
及び
中華民国
が台湾に逃走した結果、
1949年
に
中国共産党
率いる
中華人民共和国
が成立した。ソ連、中国の間では
同盟
が結ばれた。
東南アジア
では、終戦の混乱に乗じて
1945年
に
旧仏領インドシナ
地域が
独立
を宣言し、
ベトナム民主共和国
(北ベトナム)が成立した。しかし
1946年
には
フランス
が東南アジアの利権を守るべく
傀儡政権
の
コーチシナ共和国
を成立させたことで、南北
分断国家
となり、南北対立と断続的な
戦争
が行われた。
北ベトナムはソ連や中国の(
中ソ対立
ではソ連側に付いた)、
南ベトナム
は当初はフランスの、後には
アメリカ合衆国
の支援を受けた。しかし
1975年
、北ベトナム軍は南ベトナムの
首都
サイゴン
を陥落させ、社会主義国としての統一を実現した。周辺国の
カンボジア
、
ラオス
も社会主義国となった。
これに対し、
ミャンマー
(ビルマ)では、
1962年
、
ネ・ウィン
がそれまでの国内の混乱を背景にクーデターを決行。「
社会主義へのビルマの道
」と呼ばれる独特の
民族主義
・
国家主義
・社会主義体制を確立。アメリカ・ソ連との関係を最低限の範囲にまで縮小させて、国際的には孤立化の道を歩む事となった。
南アジア
においては、
インド
はソ連の支援を受け、社会主義的政策を取った。
中東
・
アフリカ
では、
1976年
には
アンゴラ
、1977年には
セーシェル
、
1978年
には
エチオピア
、
モザンビーク
、
南イエメン
、
アフガニスタン
で社会主義政権、もしくは親ソ政権が誕生した。
中南米
では、アメリカの半植民地状態であった
キューバ
で、
1959年
に
カストロ
率いる革命政権が発足した。また
1970年
に
チリ
の
自由選挙
において
サルバドール・アジェンデ
が
大統領
に選出される。しかしこのアジェンデ政権は、
1973年
には
CIA
の後援を受けた
ピノチェト
将軍らによる
チリ軍事クーデター
により崩壊した。
以上のように
西側諸国
は「ソ連が国内には
恐怖政治
、国外には革命の輸出を行っている」として軍事的圧力や経済封鎖、反革命勢力への武器提供や資金援助を行った。
東側諸国
はこれに対抗して国内統制を強化し
コミンフォルム
を通じて西側の社会主義政党にも介入したため、
冷戦
や、
朝鮮戦争
や
ベトナム戦争
などの
代理戦争
が繰り広げられた。(「
冷戦
」も参照)
なお東南アジア、アフリカ、南米などの社会主義国は、資本主義が進化して社会主義へ進んだというより、旧
宗主国
である西側諸国と対決して
植民地
や半植民地状態から独立し、ソ連などの援助を得て国家指導の
近代化
建設を推進する面が強く、陣営は異なるものの
反共主義
を掲げて西側の援助を得た
開発途上国
の
開発独裁
とも共通する。
ソ連崩壊
1953年
にソ連及び社会主義陣営に絶対的な影響力を持っていたソ連の最高指導者
ヨシフ・スターリン
が死去すると、
1950年代
半ば以降は社会主義諸国の間でもさまざまな
紛争
が起こり「共産主義は一枚岩」(社会主義国は将来的には共産主義を実現すると標榜していた)という理念は短期間で崩壊した。
1956年
の
スターリン批判
と
ハンガリー動乱
、米ソの
平和共存
路線に反対する形での
中ソ対立
や、
1968年
の
ソ連のチェコスロバキアへの軍事介入
、
1978年
からの
ソ連のアフガニスタン侵攻
、
1979年
の
中越戦争
などである。
いくつかの社会主義国では
教育
・
福祉
制度の充実がはかられ一定の生産性の向上がみられたものの、軍事負担や西側の経済封鎖の影響もあり、生活水準の向上では資本主義国に取り残された。共産党一党独裁と
中央集権
的な
官僚主義
の弊害により、
民主主義
は制限され、
労働組合
は傀儡の
御用組合
となり、党幹部は
共産貴族
とも呼ばれた。
他方、資本主義諸国では、アメリカ合衆国の
ニューディール政策
やイギリスの
福祉国家
、更には北欧諸国の
社会民主主義
政策など、教育水準の向上が社会流動性をもたらし、
社会保障
等の福祉制度の充実と生産力の向上が、貧困の克服と一定の社会の成熟と安定をもたらした。この背景には、国際的にも国内的にも社会保障面で社会主義勢力に対抗する必要があったこと、各国の社会民主主義勢力の役割などが挙げられる。
1980年代
後半には
ソ連共産党
による体制が消耗を見せ、
ベルリンの壁崩壊
などの
東欧諸国の民主化
や
ペレストロイカ
を経て、
1991年
には
ソ連が崩壊
した。重しの外れた
ヨーロッパ
の社会主義国は次々に社会体制を改め、現在ヨーロッパにはソ連型社会主義国は残っていない。
現在
(「
社会主義#ソ連崩壊後
」も参照)
2016年
現在では、
アジア
(
中華人民共和国
、
ベトナム
、
ラオス
、
北朝鮮
)と
中米
(
キューバ
)では
一党独裁制
の社会主義国が残っているが、それらの国々でも北朝鮮を除けば、ある程度
開発独裁
的な体制である
社会主義市場経済
を採用している。
アジアでは、
中華人民共和国
は
改革開放
、
ベトナム
は
ドイモイ
政策を採用し、政治的には社会主義(共産党一党独裁)を堅持しながらも、経済的には資本主義化(国有企業の
株式会社
化、外資誘致など)を導入して効率化と発展を追求する、一種の
混合経済
を進めている。
朝鮮民主主義人民共和国
(北朝鮮)は独自の
主体思想
を掲げる軍事独裁専制国家で、経済的・政治的な体制は
ソ連型社会主義
とも異なるが、2002年7月の経済改革では
農産物
など部分的な自由市場が認められ、
2009年
の憲法では、「社会主義」を標榜してはいるが、「共産主義」の語は削除され、独自の「
先軍思想
」が明記された。
一方、中南米では
キューバ
の社会主義政権が崩壊せず続いている事に加え、1990年代末より市場開放による国内産業の壊滅や貧富の差の拡大もあり、
左派
勢力が力を増し、
ベネズエラ
の
チャベス政権
を筆頭に、
エクアドル
、
ニカラグア
、
ボリビア
など社会主義を志向する国が続いており、2009年にも
エルサルバドル
では、かつては共産ゲリラであった
ファラブンド・マルティ民族解放戦線
が選挙で政権を奪取した。
米州自由貿易地域
に対抗した
米州ボリバル同盟
が結成されている。
なお
ロシア
、
ベラルーシ
などの旧社会主義圏では、
エリツィン
時代の急速な市場経済導入による混乱と国家弱体化の反動で、
超大国
時代の社会主義ソ連を懐古する層もあり、
大統領
への権限集中を後押しする一因となっている。
西側諸国の現在
西側諸国の社会主義者や社会主義政党では、かねてより
イギリス労働党
などの
社会民主主義
と、
プロレタリア独裁
を掲げ
ソ連型社会主義
を目指した
マルクス・レーニン主義
が対立していたが、マルクス・レーニン主義勢力は次第に縮小した。
日本共産党
は1950年代から「自主独立路線」を掲げ、ソ連共産党や中国共産党から次第に自律的な路線を模索しはじめる。
1963年
には
部分的核実験禁止条約
をきっかけにソ連共産党と対立し、関係を断絶。
1966年
には中国との対立も表面化し翌年には関係断絶に至る。このような流れの中で日本共産党は1966年の党綱領に自主独立路線を明記。
1974年
には党綱領からプロレタリア独裁の規定を削除し、
1976年
には「
自由と民主主義の宣言
」を出して
議会制民主主義
の擁護を明確にした。
西側最大の共産党であった
イタリア共産党
は、
1970年代
にはマルクス・レーニン主義を放棄し
ユーロコミュニズム
の路線を確立、
1980年代
には社会民主主義政党へ路線転換した。西側では長らくソ連共産党への支持を続けた
フランス共産党
は、退潮傾向にあり1990年代より多様な路線を模索している。
対立する一方の超大国が消滅したため、世界唯一の超大国となったアメリカ合衆国の軍事力の突出に懸念する声もある。冷戦下では共通の敵を持ち歩調を合わせてきた西側諸国の中でも、アメリカ合衆国の軍事行動に同調しないケースが増えつつある。また冷戦終了後もアメリカ合衆国の二重基準が続いている(民主主義と
市場経済
を唱えながら、
サウジアラビア
などの独裁政権は支持し、選挙で選ばれた
イラン
、ベネズエラなどの政権には敵対する)ことを批判する声もある。
2007年
に
世界金融危機
が発生したが、その背景として「社会主義に勝利した」とする
新自由主義
によって推進された、自由主義経済の行き過ぎ(
市場原理主義
)と、政府や社会による市場の監視・管理機能の低下が、資本主義諸国の指導者からも含め、広く指摘されている。
評価
ソ連及びソ連の影響下で成立した多くの社会主義国家では、基本的な教育・
賃金
・
住宅
・
医療
などが保障され、
身分
・
民族
・男女などによる
差別
は公式には否定され、国家による産業(特に
インフラ
)の整備が行われて近代化が促進された。一方、基本的には共産党一党独裁であり、
言論の自由
、
信教の自由
などはしばしば制限され、また官僚制による腐敗や非効率も深刻化した。特に
スターリン
時代には大規模な
人権侵害
が長期間行われた事が
スターリン批判
で暴露されたが、共産党独裁自体は継続された。またソ連の影響下の国々は
衛星国
とも呼ばれ
制限主権論
も唱えられた。
ソ連の影響下ではなく独力で社会主義政権を建設した国では、
ユーゴスラビア
や
キューバ
のようにソ連に比べ政権党の統制が比較的緩やかな場合もあるが、とりわけ、
中国
・
カンボジア
・
北朝鮮
は、ソ連以上に厳しい抑圧体制を敷いた。カンボジアの
ポル・ポト
政権は、中国の
文化大革命
に触発されて極端な
農業
集団化を推し進め、
人口
700万の同国で150万から300万の
国民
(国外
亡命
者を含む)を
処刑
した。
1989年
6月には中国で
天安門事件
が発生し、
民主化
を求める学生デモを武力鎮圧した。中国では現在、
ネット検閲
によって
サイバー空間
でも国民を抑圧し、また
チベットにおける人権侵害
が現在進行形で行われている。
・・・
(以降はwikipedia参照)
社会主義国の一覧
社会主義を掲げた暫定・臨時政権の一覧
分断国家
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分断国家
とは、
本来なら一つの国家であるべきだが、人為的に分裂させられた状態にある国民国家
のことである。特に、
第二次世界大戦後の冷戦時代に西側陣営と東側陣営とで国内が分裂した国家
を指す
。分裂国家などの呼び方もある。
概要
分断国家の特徴として、以下の点が挙げられる。
1.一つの
国家
内に複数の
政府承認
を受けた2つ以上の
政府
が並立している。
2.並立する政府がいずれも「当該国家で正統性を有する(合法的な)唯一の政府である」との認識から自身が主導する国家の統一を志向している。
3.その状況が平時において長期間持続している。
分断国家は、各政府が公式には当該国家の
領土
全域に対する
主権
を主張しているものの、実際はその一部を
実効支配
するに留まっている為、国内が政府支配地域毎に分裂している。分断国家の各政府は、自己が認識する正統性を根拠に、国家の統一を目指して政府同士の
戦争
・交渉または諸外国との
外交
を行う。並立する政府の外交上の扱いは国・時代によって異なっており、並立する政府に対する他国の
政府承認
を一切否定する方針(
ハルシュタイン原則
、及び「
一つの中国
」論に基づく
二重承認否定
)もあれば、逆に否定しない方針(
南北等距離外交
)もある。
統一が実現するまでの間、各政府はそれぞれが実効支配する
地域
で独自の内政を実施し、かつそれぞれの地域住民は政府によって
相互交流
が制限されるため、同じ国家内の地域同士であっても
経済格差
や住民の
価値観
の変化等が生じる。また、別個に
政府承認
を受けた各政府が独自に
外交政策
を展開することで、
国際社会
では分断国家の存在を前提とした
国際関係
が構築される。分断国家で分断状態が長期化すると、これらの事象が複合的に発展し、「国家が分断されている異常な状態が常態である」という「分断の恒久化」が発生することが多い。
分断国家は、「一国家一政府」を原則とする
国民国家
(近代国家)の概念が普遍的になった
近代
以降に現れた概念である。従って、
ローマ帝国
の
東西分裂
や、
領邦国家
が乱立していた
ドイツ統一
以前の
ドイツ
、及び
三国時代
や
魏晋南北朝
時代の
中国
等、近代国家でない国の分裂は分断国家に該当しない。また、
スールー王国
のように、前近代国家の統治する地域が
列強
諸国によって分割・
植民地
化され、後に分割された地域が植民地単位で別個に独立した場合も、分断国家に該当しない。一方、近代国家で
2つ以上の国家が並立していても分断国家と見なされない場合
がある。
分断国家の一覧
2019年
時点で現存する分断国家は、
中国
と
朝鮮
の2か国である。これらの国の各政府はいずれも、「国土全域を支配する正統性を有する」と主張し、対立相手の正統性を認めていない。また、過去の例としては
イエメン
、
ドイツ
、
ベトナム
がある。
いずれの事例も、
冷戦
の最中に独立・
主権
を回復する過程で、「
政治
・
経済体制
を
自由
・
資本主義
体制と
社会主義体制
のどちらにすべきか」という
イデオロギー
の選択が対立の原因となって分裂している。
分断国家と見なされない例
上記の分断国家に対し、
1.住民の
民族問題
・
宗教問題
が原因で分裂した国家・地域
2.
キプロス島
以外の事例は、独立の際に統一状態を望まない住民がいた地域か、一部住民が自決権を求めて一方的に分裂した国家である。
3.
戦中
の短期間のみ政府が分裂した国家
4.
消滅した政府
は敵対した交戦勢力の
傀儡政府
ないし
衛星国
と見なされることが多い。
5.
国民
の自発的意志によって分裂した国家
のいずれかに該当する場合は分断国家とはみなされない。また特殊な例としては、従前の
民族自決権
(自決権)による統一の正統性が
戦争
によって全面的に否定され再分裂した
大ドイツ
がある。
住民の民族・宗教問題が原因で分裂した国家・地域
キプロス島
キプロス
:南キプロス(既存のキプロス共和国)と北キプロス
・キプロスは、
民族問題
が原因で分裂し、並立する政府がいずれも再統一を志向している唯一の国家である。
・
1960年
に独立したキプロス共和国の
マカリオス
政権は、
キプロス紛争
が継続する中で
ギリシャ系住民
と
トルコ系住民
の共存を目指し、
中立主義
の一環として
エノシス
(全キプロスのギリシャへの統合)の放棄を宣言した。そのため、エノシスを望む
ギリシャ軍事政権
とギリシア系
軍人
・
民兵
は
1974年
に
クーデター
を起こし、キプロスはマカリオス派とクーデター派との
内戦
状態に陥った。これを受け、エノシス実現の可能性を恐れた
トルコ
は「トルコ系住民の保護」を名目に
トルコ軍
をキプロスへ侵攻させ、キプロスは
グリーンライン
を境に北キプロスのトルコ軍実効支配地域と南キプロスのキプロス共和国実効支配地域に分断された。分断後、
1975年
にトルコ軍実効支配地域はキプロス連邦トルコ人共和国を樹立して
連邦制
による南北の再統一を目指した。だが、分断以前の体制への復帰を望む南キプロスとの統合交渉が決裂した為、
1983年
に北キプロス・トルコ共和国として一方的に独立を宣言した。以降、南キプロスは
トルコ
以外の
国連加盟191カ国
から
国家承認
を受ける一方、北キプロスは
トルコ
からしか
国家承認を受けていない
。
・1974年の南北分断以降、キプロス共和国は北キプロスを
実効支配
するトルコ人共和国の
正統性
を認めておらず、北キプロスは分断前の状態に復帰すべきと認識している。一方の北キプロス・トルコ共和国は、南北分断以降のキプロス共和国が「正統なキプロス政府」であることを認めず、南北両国の
連邦
による再統一を目指している。両国は
国際連合
や
ギリシャ
・
トルコ
・
イギリス
を交えながら
キプロスの再統一に向けた交渉
で妥協点を探っている。
独立の際に統一状態を望まない住民がいた地域
・
イギリス領インド帝国
:
インド・パキスタン分離独立
によって
インド
と
パキスタン
が
分離独立
・
インド亜大陸
は主な言語が
ヒンドゥースターニー語
で共通していたが、
イギリス
の
植民地
体制を解体する過程で
宗教
的
マイノリティー
である
ムスリム
がムスリム人口の多い地域を別個の国家として分離独立させることを強く主張した。その結果、インド帝国はムスリム国家(パキスタン)とヒンドゥー国家(インド)に分離し、独立後は印パ両国のいずれもが
統一インド
を志向していない。ただし、両国は
国交
を有するものの、
カシミール
地方を巡る
カシミール紛争
(
印パ戦争
含む)で軍事的緊張が続いている影響から
相互交流
が低調で、両国間の
言語分断
が進んでいる。
・
イギリス
領
アイルランド島
:
英愛条約
によって独立国家
アイルランド
(南アイルランド)と英国領の
北アイルランド
とに分離
・
アイルランド島
は、
アイルランド独立戦争
の最中に制定された
アイルランド統治法
によって
カトリック
系住民主体の南アイルランドと
プロテスタント
系住民主体の北アイルランドとに分割された。その後、
1921年
の
英愛条約
によって南アイルランドは
アイルランド自由国
(アイルランド)として英国から独立が認められたが、北アイルランドは多数派のプロテスタント系住民が英国に残留することを選択したため、アイルランドへの統合を望む少数派のカトリック系住民が反発し
北アイルランド問題
となった。この間、アイルランド政府は北アイルランドの
領有権
を主張していたが、
1998年
の
ベルファスト合意
によって領有権の主張を放棄した。
一部住民が自決権を求めて一方的に分裂した国家
・
アゼルバイジャン
:
ナゴルノ・カラバフ
地域
・
ナゴルノ・カラバフ戦争
によって、
1991年
に
ナゴルノ・カラバフ共和国(現
アルツァフ共和国
) が分離独立を宣言。ただし、アゼルバイジャンは同地域の分離を承認しておらず、
国際連合加盟国から国家承認を受けていない
。
・
アメリカ合衆国
:
アメリカ南部
地域
・
奴隷制や連邦制を巡る見解の相違
によって、
1861年
に
アメリカ連合国
が分離独立を宣言。ただし、合衆国は同地域の分離を承認しておらず、
ドイツ
の
領邦国家
1か国以外から
国家承認
されなかった。
南北戦争
の敗北によって連合国が消滅し、同地域は
合衆国に復帰
した。
・
ジョージア
:
南オセチア
地域と
アブハジア
地域
・
南オセチア紛争
及び
アブハジア紛争
によって、
南オセチア共和国(
1991年
)と
アブハジア共和国 (
1992年
)がそれぞれ分離独立を宣言。ただし、ジョージアは両地域の分離を承認しておらず、
国家承認する国際連合加盟国が数か国しかいない
。
・
モルドバ
:
トランスニストリア
地域
・
トランスニストリア戦争
によって、
沿ドニエストル共和国
(
1992年
)が独立宣言。ただし、モルドバは分離を承認しておらず、
国家承認する国際連合加盟国が数か国しかいない
。
・
中華民国
:
南満州
(
東北三省
)
・
満州事変
によって、
満州国
が
1932年
に分離独立を宣言。ただし、中華民国は同地域の分離を承認しておらず、
国際連盟
は
リットン調査団
の報告を受けて「満州国の分離独立を承認すべきではない」と結論付けた。
第二次世界大戦
の
日本の降伏
と共に満州国が消滅し、南満州は中華民国に復帰した。
・
パキスタン
:
東パキスタン
(旧
東ベンガル州
)
・
バングラデシュ独立戦争
によって、
バングラデシュ
が
1971年
に分離独立。
1974年
に
国際連合加盟
。独立後、バングラデシュはパキスタンに対する敵対政策をとっておらず、隣国のインドとも
2015年
に
国境の飛地群
の領土交換を行う等、関係は悪くはない。
・
ソマリア
:
ソマリランド
(旧
イギリス領ソマリランド
)
・
ソマリア内戦
によって、
ソマリランド共和国(
1991年
)がそれぞれ分離独立を宣言。ただし、ソマリアは分離を承認しておらず、
国際連合加盟国から国家承認を受けていない
。
・
ユーゴスラビア
(
旧ユーゴ
):連邦を構成する
各構成体
・
ユーゴスラビア紛争
によって、
スロベニア
・
クロアチア
・
北マケドニア
(
1991年
)、及び
ボスニア・ヘルツェゴビナ
(
1992年
)が相次いで分離独立。連邦に残った構成体は、1992年に
ユーゴスラビア
(新ユーゴ)を発足。各国は紛争終結後に
国交
を樹立したが、民族間の心理的わだかまりは残っている。
・
ユーゴスラビア
(新ユーゴ):
コソボ・メトヒヤ自治州
・
コソボ紛争
によって、
1999年
にコソボ・メトヒヤ自治州が連邦から分離し、
2008年
に
コソボ
が独立を宣言。連邦に残った構成体は、
2003年
に
セルビア・モンテネグロ
を発足。ただし、分離前にコソボが属していた
セルビア
はコソボの独立を認めておらず、
国連常任理事国
から
国連加盟が認められていない
状態である。
国民の自発的意志によって分裂した国家
・
セルビア・モンテネグロ
:
セルビア
と
モンテネグロ
・
国民投票
の結果を受けて
連邦
制を解消。
2006年
にモンテネグロが分裂し、セルビアが
継承国
となる。
・
チェコスロバキア
:
チェコ
と
スロバキア
ビロード離婚
によって連邦制を解消。
1993年
にスロバキアが分裂し、チェコが継承国となる。
大ドイツ
(詳細は「
ドイツ問題
」を参照)
・大ドイツとは、
フランクフルト国民議会
で
提案
された
大ドイツ主義
に基づく
地域
概念で、
ドイツ国
(
小ドイツ主義
に基づくドイツ)に
旧オーストリア・ハンガリー領
の
ドイツ民族
居住地域(
オーストリア
と
ズデーテン地方
)を加えた範囲から成る。
・大ドイツは、
民族自決権
を
正統性
の根拠として1つの国家に
統一
されたが、後に勃発した
戦争
(
第二次世界大戦
)で正統性が全面的に否定され、戦後に同一民族が複数の国家に分裂した唯一の事例である。
大ドイツの発生から統一・分裂までの経緯
・
ドイツ語圏
は、
神聖ローマ帝国
が
三十年戦争
の影響で統一国家としての実権を失うと、帝国内が
主権国家化
した各地の
領邦
と
帝国自由都市
毎に分裂した状態となった。
第三次対仏大同盟
下での帝国解体後、
ウィーン議定書
の取り決めで
1815年
に
オーストリア帝国
を永久議長国とする
ドイツ連邦
が発足したが、その実態は「
連邦
」よりは
国家連合
であった。また、議長国オーストリアの領土は連邦の域外である
ハンガリー人
や
スラブ人
等の非ドイツ人主体の
ハンガリー王国
にも及び、プロイセン王国の領土もドイツ人主体の
プロイセン
と
ポーゼン州
にも及んでいた。その為、
ウィーン体制
の安定期にドイツでは「ドイツ民族の
国民国家
」と言える国家が存在していなかった。
・国民国家としての大ドイツが初めて具体的に議論されたのは、
1848年
の
フランクフルト国民議会
においてである。
1848年革命
を受けドイツ民族の
ナショナリズム
が高揚する中で開催された議会は、国民国家としての
ドイツ統一
を実現するために、「ドイツ」の定義やその範囲についても討議した(詳細は
こちらを参照
)。だが議会では、
多民族国家
であるオーストリアを除外した地域で統一国家の樹立を目指す「
小ドイツ主義
」と、オーストリアを含めた全ドイツ語圏の国家統一を目指す「
大ドイツ主義
」が対立し、その他諸事情も相まって、統一に関する実行可能な合意を得ることができなかった。統一策を巡る「小ドイツ主義」と「大ドイツ主義」の対立は
1866年
に
プロイセン王国
とオーストリア帝国の戦争(
普墺戦争
)に至り、オーストリア敗北後にドイツ連邦が解体された事で大ドイツを統合する枠組みが消滅した。その後、プロイセン王国は小ドイツ主義による
ドイツ統一
を達成する一方、オーストリア帝国は
アウスグライヒ
によって人口の過半を占める非ドイツ人(主に
ハンガリー人
)にもドイツ人と対等の
自治権
を認める
同君連合
へ変化し、旧ドイツ連邦領は
1871年
までに①ドイツ民族の国民国家・
ドイツ国
(
ドイツ帝国
)、②多民族国家・
オーストリア・ハンガリー帝国
、③元領邦国家・
リヒテンシュタイン公国
及び
ルクセンブルク大公国
のいずれかに分裂した。
・大ドイツが民族分断による分断国家と認識されるようになったのは、
20世紀
の
戦間期
に入ってからである。
第一次世界大戦
末期にオーストリア・ハンガリー帝国で
オーストリア革命
が起きると、帝国から
チェコスロバキア
を始めとする非ドイツ人の居住地域が相次いで分離し、後に誕生した
オーストリア第一共和国
は
版図
がほぼドイツ人の居住地域に縮小された。これにより、
大ドイツ主義
による統一の問題となっていたオーストリアの多民族性が解消され、オーストリアでは
大ドイツ主義
を望む機運が高まった。この時期、オーストリアは正式な国名に「ドイツ=オーストリア共和国」(
Republik Deutschösterreich
:
1918年
~
1919年
)を採用し、オーストリア国民の
アイデンティティ
がドイツにあることを示した。だが、第一次世界大戦の
講和条約
である
ヴェルサイユ条約
(対独)及び
サン=ジェルマン条約
(対墺)には、「
国際連盟
の承認が無い限りオーストリアの独立を変更できない」とする条文が盛り込まれ、敗戦国に対する
戦勝国
の圧力で独墺両国の統合が事実上禁じられた。これは、オーストリアの非ドイツ人を独立させる根拠となった
民族自決権
に反する内容で、そのために戦間期の独墺は分断国家の側面が強い。ただし、両国では講和後も統一を求めて
法律
・
税制
・
交通
・
通信
等の共通化政策を進め、またオーストリアは
当時の国歌
に「ドイツ=オーストリア」(
1920年
~
1929年
)、または「ドイツの地」(
Deutsche Heimat
)(
1929年
~
1938年
)という詞を含め、引き続きアイデンティティがドイツに向いていることを示した。また同時期には、帝国崩壊時に
チェコスロバキア
領とされ、ドイツ人が域内人口で多数を占めていた
ズデーテン地方
においても、
民族主義
の高揚からドイツへの併合を求める運動が活発化した。
・ドイツ帝国崩壊後、
ヴァイマル共和政
下のドイツ国では
世界恐慌
の影響等から
ナチスが権力を掌握
した。すると、
アドルフ・ヒトラー
はオーストリア・ズデーテンにおけるドイツ統一の機運に乗じて
オーストリア併合
と
ズデーテン併合
を相次いで達成し、
1938年
10月10日
に大ドイツは史上初めて1つの国民国家として統一された。ドイツのオーストリア・ズデーテン併合は「民族自決権」の論理が正統性の根拠となり、
ミュンヘン協定
締結時にはドイツ国内だけでなく
イギリス
、
フランス
等の諸外国も「自決権行使」の観点から大ドイツ統一を承認した。だが、
ナチス
による大ドイツ統一は、単なる「民族自決権の行使」ではなく「
生存圏
(
東方生存圏
)確保の一環として行われており、統一直後の
1939年
3月15日
には自決権に反して
チェコ人
の居住地域である
ボヘミア
と
モラヴィア
を
ドイツ保護領
として事実上併合した。ナチスによるドイツ拡大の対象は
東方領土
にも及び、
メーメル
一帯を3月22日に併合した後、
ポーランド侵攻
(
第二次世界大戦
)によって占領した
ポーランド
をドイツ本国に組み込むか
ポーランド総督府
統治区域とした。更に、ナチスは
独ソ戦
開戦によって広大な
東部占領地域
を獲得し、
東部総合計画
による
大ゲルマン帝国
の構築を目論んだが、最終的に
ドイツの敗戦
によってナチスが目論んだドイツ拡大は失敗に終わり、逆に戦前から小ドイツの一部であった
旧ドイツ東部領土
全域を喪失する結果となった。
・
第二次世界大戦
発後、
連合国
は
ナチス・ドイツ
による
一連のヨーロッパ占領
を
侵略
行為と認定し、大戦前に「民族自決権」を根拠として統一された大ドイツについても統一の正統性が否定された。その為、大戦末期の
ウィーン攻勢
で連合国軍がオーストリアを占領すると、新たに発足した
オーストリア臨時政府
が独墺併合の無効を宣言して大ドイツから離脱した。また、ズデーテン地方は大戦後に再建されたチェコスロバキアに戻され、現地のドイツ人は旧ドイツ東部領土のドイツ人と同様に
追放された
。大戦後、ドイツ(
1990年
までは
東
・
西ドイツ
)でもナチスによる
アンシュルス
以降のドイツ拡大政策が「侵略行為」と認定され、またオーストリアでは
独墺統一時代に受けた苦渋の経験
から「ドイツ人」ではない「
オーストリア人
」としての
アイデンティティー
が形成された。その為、連合国軍の
占領統治
から
主権
を回復した後、独墺両国は共に自国を「ドイツ民族の分断国家」と認識しておらず、オーストリア国内でオーストリア人を「ドイツ民族」と呼ぶ風潮も
右派
や年配者に限られるようになっている。
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